あらし山の風

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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令和のトイレットペーパー騒動

 ある日、友人から”トイレットベーバーを買いに来たんだけど、どこに行ってもない”と電話があった。まさかと思い、食料品の調達に山を下りたついでにスーパー薬局に立ち寄ると、あれほど沢山積んであったトイレットペーバーが軒並み消えていた

 昭和48年の石油ショックの折に紙がなくなるという噂が流れ、千里ニュータウンにあった大丸で瞬く間にトイレットペーバーが売り切れ無くなったことを新聞が書き立て騒ぎが大きくなり、騒動にまで発展した。当時は中東戦争のさなかで原油高騰により紙が本当に無くなるかもしれないという集団心理から各地に飛び火し、トイレットペーパーを求めて長蛇の列ができ全国に連鎖的に拡大した。これは、高度経済成長で大量消費に慣れていた日本人が、急に”物不足の恐怖”に直面したためと言われている。ただ、当時の日本の紙生産は安定しており、このパニックが発生した後は生産量の増加も行っていたようである。

 そして、今回の新型コロナウィルスが世界的に感染拡大している最中におきた「令和のトイレットペーパー騒動」である。”トイレットペーバーは中国で製造されているため、これから不足する”という誤った情報が拡散し、政府や業界団体が在庫は十分にあるという中で、全国各地でトイレットベーバーやテイッシュベーバーなどの紙製品が店頭から消え、海外でも同様なことが起こっているという。

 昭和のトイレットペーバー騒動の当時、学生で大阪にいたので一体なにがおこったんだろうと思ってながめていた。全国的といいながら、まだ足元には届いておらず少し余裕があった感がある。

 しかし、今回の令和の騒動はSNSの普及によって誤った情報が瞬く間に拡散し、アッという間にあらし山の麓まで届いている。大変な世の中になったものだ。

 

【スーパー薬局のトイレットペーパー売り場】

トイレットペーパーが消える

あらし山「ベートーヴェンの庭」

 あらしやま山荘の庭にある枝垂れ梅の蕾が膨らみ始めました。

 冬になると、この庭を眺めてベートーヴェンの「田園」を聴きながら”朝フル”タイムです。

 ベートーヴェンが重度の難聴を患い、失意のうちに移り住んだ「ハイリゲンシュタット」を想いながら聴くと格別です。

 目の前の老梅が苦悩するベートーヴェンに見え、緑豊かなウィーン森の抱かれたハイリゲンシュタットを散策する姿が想い描かれます。その散策するペートーヴェンの姿をまねて撮ったのが、宮澤賢治の有名な物思いにふける姿の写真です。

 そして、この地で生まれた名曲が「交響曲第6番・田園」です。

 田園は40分程の曲で、次の五つの楽章からなります。

 

  第1楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」

  第2楽章「小川のほとりの情景」

  第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」

  第4楽章「雷雨、嵐」

  第5楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」

 

 今は、この庭を”ベートーヴェンの庭”と称し、山間の庭を楽しんでいます。

 

【第5楽章 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち】

”マウンテン・バンジョー” 弦の張替え

 あらし山に”マウンテン・バンジョー”が、やってきたのは2012年12月のこと。

 この”「マウンテン・フレットレス・バンジョー”の制作者は、バージニアのRichard K.Smith さん。
 糸巻きはフリクションペグといいバイオリンに使われているもので、直接、ネックに差し込んであるだけ。
 張ってあるのはナイロン弦である。

 愛用のGibsonバンジョーはスチール弦で、ナイロン弦を張ったことがない。

 そのために張替えをせずに、そのままにしていた。

 ちょうど7年越しの張替えということになる。

 問題のナイロン弦だが、いろいろと調べると適当なものが見つからない。

 まてよと、以前、”やぎたこ”のやなぎさんが同じバンジョーを持っておられたのを思い出し教えてもらった。

 なんと、やなぎさんが張っていたのは釣り糸。

 我が”マウンテン・バンジョー”も、釣り糸を張ることにした。

 ガットギターの張り方を勉強して挑戦したが、フリクションペグということもあり、なかなか難しい。

 やっと張れたと思ったら、チューニングに手こずった。

 それでも半日がかりで、無事、終了!

 音量は小さいが素朴で、澄んだ音が響いて、なんとも心地良い。

 やっぱり、弦は張り替えるに限る。

 アパラチアの山間の人たちは手製のバンジョーを作り、弦は釣り糸を使っていたという話を聞いたことがある。

 ”シンプル”なものは”シンプル”な物でこそ意味があるのかも知れない。

 なんでも経験しないとわかりませんねぇ。

 やなぎさん、ありがとうございました。

 

[張替えが終わったマウンテン・バンジョーと釣り糸弦]

Mauntain Banjo弦

出る月を待つべし、散る花を追うなかれ

 世の中には、凄い人がいるものである。

 江戸時代の儒者、中根東里(なかねとうり)のことである。

 この人は、この時代の中でも俊秀であったというが、相当変わっている。

 なにしろ自分の名が残らないように、作品を燃やし続け、隠れ続け、自分の存在や生きていた痕跡を消し続けていたのだから凄い。元禄時代に中国語に通じて自在に操れたのだから、俊秀と言ってもレベルが違う。伊豆下田の貧乏寺で小坊主をしていた時に、お経の漢文には中国語本来の音が残っていることに気がついてしまった。そして、寺を飛び出して中国僧のいる黄檗山萬福寺に移ってとうとう中国語をマスターしてしまった。年若くして、あの大蔵経全巻を読破してしまったのだから相当なものだ。

 これだけ学識もあり、さらに中国語の音がわかっていたのだから向かうところ敵無しであり、あの荻生徂徠も、書の細井光沢も、朱子学の室鳩巣等からも自宅に招かれて共に勉強したという。

 中根東里の凄いところは、こんなに学問ができるのにどこにも仕官しなかったことである。

 食べるための学問を愛したわけではなかったらしい。

 お金があれば読書をした。

 お金が無くなったら竹の皮で草履を作ってそれを売り、それで暮らした。

 だから”竹皮草履先生”と呼ばれていたそうだ。

 当然、妻もいなかったが、子ども大好きだったようだ。飢えて困っていた幼い姪を引き取って一緒に暮らしていたという。

 まるで良寛さんじゃないか。(良寛さんは子どもと暮らしていたわけではなかったが・・)

 下野の国、佐野の植野という小さな村(栃木県佐野市)で、村人の要請に応じて寺子屋の先生をしていた。

 肉親を失った者には「出る月を待つべし 散る花を惜しむことなかれ」と言って励ました。

 今、この言葉が心底身に染みている!

 

(余録)なぜ知ったのかというと、ある日テレビを観ていて浦賀のリポートで地元の方が、ここには偉い人儒学者がいたよと口にした(浦賀は終焉の地である)。あれっ、中江藤樹先生のことかなと聞いていたら、それが中根東里のことだった。それから暫くして、歴史家の磯田道史さんの講演録を聞きビックリして、彼の「無私の日本人」を読んで驚いた。こんな人がいたんだ!

 下記は、中根東里の「壁書」である。

 如何に!

 

 中根東里の「壁書」

一.父母をいとをしみ、兄弟にむつまじきは身を修むる本なり。

  本かたければ末しげし。

一.老を敬ひ、幼をいつくしみ、有を貴び、無能をあはれむ。

一.忠臣は國あることを知りて、家あることを知らず。

  孝子は親あることを知りて、己れあることを知らず。

一.祖先の祭を愼み、子孫の海鮃にせず。

一.辭はゆるくして誠ならむことを願ひ、行は敏くして厚からんことを欲す。

一.善を見ては法とし、不善を見てはいましめとす。

一.怒に難を思へば悔にいたらず。欲に義を思へば恥をとらず。

一.儉より奢に移ることは易く、奢より儉に入ることはかたし。

一.樵父は山にとり、漁父は海に浮ぶ。人各々其業を樂むべし。

一.人の過をいはず。我功にほこらず。

一.病は口より入るもの多し。禍は口より出づるもの少からず。

一.施して報を願はず。受けて恩を忘れず。

一.他山の石は玉をみがくべし。憂患のことは心をみがくべし。

一.水を飲んで樂むものあり。錦を衣て憂ふるものあり。

一.出る月を待つべし。散る花を追ふ勿れ。

一.忠言は耳にさからひ、良藥は口に苦し。

 

令和の彼岸花は、開花大幅遅れ!

  曼珠沙華は彼岸花と呼ばれ毎年秋の彼岸にあわせたかのように920日頃には花が咲く。しかし、今年は開花が遅れ、あらし山では101日頃になった。彼岸花の球根は、秋になると夏の眠りから覚め、何も見当たらない地面から突然花茎を伸ばしてきたかと思うと、あっという間に花を開く。開花するためには、日の最低気温が20℃前後まで下がってくる必要がある。下の図をみると、例年では9月上旬には最低気温が20℃前後で経過しているのに対して、今年は高く経過していることがわかる。興味深いのは、“彼岸の中日”に合わせるかのように気温が下がっていることで、これも彼岸花の開花には低温遭遇も必要とされていることと一致する。

 あらし山の彼岸頃の平均気温は22℃位で、最も過ごしやすい気温である。

 「暑さ寒さも彼岸まで」とは、よく言ったものだ。

 

【あらし山の清見タンゴールと彼岸花】

清見やまの彼岸花

令和の彼岸花の開花気温

日本最初のフォークソング〜おおスザンナ〜

  ジョン万次郎は、日本とアメリカについて語るとき何かにつけて「最初の人」である。
  アメリカのフォークソングを最初に日本に伝えたのもジョン万次郎であった。
 その歌が「おおスザンナ」である。
 1850年、ゴールドラッシュのカリフォルニアへと向かい、帰国費用を稼ぐために金鉱掘りをする。このとき金鉱掘りたちの間で流行していたのが「おおスザンナ」だった。ここで大金を手に入れてホノルルへ向かい、苦労の末、1851年、琉球に上陸。鹿児島と長崎での長い取り調べの後、諫早から有明海、門司、下関、瀬戸内海を伊予へと渡って1852年夏、陸路で山を越え、ようやく土佐領に入った。この途上、同行者と歌ったのが「おおスザンナ」だった。ジョン万次郎から医師藤崎祥明が聞き書きした『土州人漂流記』には、「アメリカにも日本と同じ詩歌の類があり、道中にて謡う」と記されている。
 ジョン万次郎はこの歌をどう理解していたのか。
 捕鯨船やアメリカの生活の中で、ジョン万次郎はいくつもの歌を聴いて歌って覚えていたはずなのに、史料に残っているのは「おおスザンナ」だけである。
 なぜこの歌にこだわったのか?
 土佐に帰った後、ジョン万次郎は河田小龍に「おおスザンナ」を英語で教え、『半舫斉雑記』に英語とカタカナ読みで「おお、スザンナ」の冒頭部分が載っている。河田小龍は土佐藩での取り調べ記録を作った絵師で、その『漂巽紀畧』は坂本龍馬にも大きな影響を与えている。

 その『半舫斉雑記』に記されているのは、以下の歌詞の冒頭である。

 ”I came from Alabama with a banjo on my knee”

 英語で記録されているこの冒頭の「俺はアラバマから来たのさ…」は、自分は異邦人であり人に会うために旅をしている、という言葉に聞こえたのではないのか?。
 さらに日本語に訳された、”スザンナが涙をためて坂を下ってくる夢の部分”は、辛苦をいとわず会いに行こうとしている母や故郷への想いと共鳴しのではないか?
 ジョン万次郎は、「おおスザンナ」のナンセンスソング的な部分を解釈しないで、漂流民としての自分の姿を重ね望郷の歌として聞いたのではないだろうか?
 14歳で漂流し、アメリカに明るい生活の見通しを築きながら、母に会いたい一念で死を覚悟で鎖国中の日本に戻ったジョン万次郎が、ついに故郷の土佐に帰るという道筋でこれを歌ったということに感動せざるをえない。
 「おおスザンナ」は日本で最初にジョン万次郎が歌ったアメリカ最初のポップヒットである。

 " ♪ おお!スザンナ、泣くんじゃない バンジョー持って出かけたところなんだよ♪ ”
 

バンジョーロゴ

宮澤賢治の聴いたクラシック

 あらしやま山荘には、つばのある帽子を被り、厚手のコートを着た賢治が後ろ手に組んでうつむきがちに野原を歩く写真が掲げてあり、私の宝物のような額である。これは愛媛県経済農業協同組合連合会で土壌肥料の技術者として仕事をしている時に、当時の赤松専務(鬼北農協の組合長)に呼ばれて小さな古い1枚の写真を見せられ、この写真を大きくして額に入れたいがどうしたらいいかと尋ねられた。赤松専務に、もう一枚同じものを作ってもよいとの承諾をいただき、同郷のデザイナーに頼んで作ってもらったもらったものである。

 この有名な写真は、宮澤賢治が勤務していた花巻農学校の付近の野原で専門家に頼んで撮影してもらったもので、ベートーヴェンを深く敬愛していた賢治が、ベートーヴェンがウィーン郊外のハイリゲンシュタットを散策している様子をまねたものだと言われている。賢治は、この写真をとても気に入りサインをして親しい人たちに贈っていたそうである。

 なんと最近、賢治が所有し聴いたであろう当時のレコードを復刻したCDが手に入った。

 SPレコードの復刻なので、聴くとシャリショリと音が入るが、この音もあらし山で聴くと格別である。

 中でも、賢治の「小岩井農場」という長編詩はベートーヴェンの交響曲「田園」と同じ手法で書かれているそうで、ハイリゲンシュタットをこよなく愛したベートーヴェンは、田園を一日中歩き抜くことで体に溜まったエネルギーを放出し、感情や欲求を解消していたと言われ、賢治もまた同じ体験を何人かの友人に話していたという。

 他に、シューマンの「トロイメライ」のチェロ演奏は「セロ弾きのゴーシュ」を彷彿とさせ、賢治はドボルザークの「新世界交響楽」も殊のほか愛したそうで、農学校の教え子にアメリカに行きたいと話していた。弟の清六さんによると、”兄は蓄音機のラッパに耳をつっこむようにしながら聴いていた”とのことで、一緒に聴いたブラームスの交響曲第3番第三楽章のメロディーを今でも口ずさめると著書に綴っている。

 さらに、病床にあって賢治が繰り返し聴いていたのはドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」だった。わが国で最も初期のクラシック・レコードの極めて感度の高い収集家でもあった賢治は、チェロを弾き、クラシック音楽こそ賢治の文学の源泉だったとも言われる。花巻高等農林学校を退職した後、賢治は独居生活を始め、昼は農作業に勤しみ、夜は農村青年たちと農業と芸術の講座を開き、レコート鑑賞会をしたりして、土と芸術に親しむ私塾「羅須地人協会」を発足させた。

 「雨ニモマケズ」にある”一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ”と書いているような日々であったようだが、理想の私塾を旗揚げした賢治の心は光でできたバイプオルガンの調べのように明るく晴れやかであったという。

 賢治の書いた「農民芸術概論綱要」の終わりには「永久の未完成、これ完成である」とあるが、これはシューベルトの「未完成交響曲」に共鳴した言葉であろうか。

 学校で習った音楽の授業の域をでない者としては、賢治が眩くてならない!

 

【あらし山で聴く、ベートーベンの交響曲「田園」】

 

あらし山チロルの谷

 先々月の15日、公益社団法人 大日本報徳社の鷲山社長ご夫妻が”あらしやま山荘”にみえられた。

 愛媛報徳社あらし山「報徳塾」の設立総会に出席のため、遠路、静岡県掛川市からお越しいただいた。

 ご夫妻の”あらし山”滞在は実に七年ぶり、年輪塾の「尊徳公開セミナー」に出席いただくために、二宮金次郎七代目のご子孫である中桐さんと一緒に"あらしやま山荘"にお見えになって以来である。その時は暴風雨で、真っ暗な山道を辿り着かれたために、ゆっくり周りを見る余裕はなかったようであるが、今回は秋晴れに恵まれて、ゆっくり滞在していただいた。

 鷲山社長は元東京学芸大学の学長さん、奥様は東京外国語大学の名誉教授で、それぞれドイツ文学とドイツ演劇がご専門である。

 二宮金次郎を介しての不思議なご縁である。

 

 設立総会を終えて帰られる朝のこと、鷲山社長が”あらしやま山荘”の二階に腰掛けられ、こう言われた。

 「ここの眺めはいいねぇ。

  以前、チロルの谷に行ったことがあり、もう一度行きたいと思っていたんだが、ここで十分だねぇ。

  ・・と。

 ”あらしやま山荘”は、昭和7年から標高200mの石垣の上に建っている。

 この地で10代営々と暮らしており、ここから見える眺めが大好きで私の原風景でもある。

 ここに来るためには2Kmほどの山道を車で走るが、初めての人には”この先に家があるのか?”と尋ねられたりもする。

 それでも、こんなに褒めていただいたことはない。

 

 そうだ、これから「あらし山チロルの谷」と呼ぶことにしよう!

 山あいの一軒家でも人は来る!

 有難い、ミカン山が喜んでいる!

 

【あらしやま山荘からの原風景 】

あらし山チロルの谷(2)

【あらしやま山荘からの原風景 】

あらし山チロルの谷(1)

 

「雨ニモマケズ」in あらし山

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク 決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラツテイル
  一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
  東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
  サウイフモノニワタシハナリタイ 」

 

 手帳に書かれた宮澤賢治の遺作のメモで、一般には詩として広く知られており、「雨ニモマケズ / 風ニモマケズ」に始まり、「ソウイフモノニ / ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ書きである。これにメロディーを付けて歌にしたものは多いが、そのなかで宇佐元恭一さんが作られたメロディーを特に気に入り、ご本人の了解を得て歌っている。これは”あらしやま山荘”での「楽農ゼミナール」のご挨拶がわり皆でシングアウトしたもので、演奏は自称”あらし山報徳バンド”であるが、如何せんバラバラでシロウトも甚だしく、合わせて練習しここともなくイキニナリであり聞くに堪えないが、これも仕方がない。

 歌うことに意義がある!・・・と思っている次第。

 宮澤賢治がこうありたいと願った生き方を綴ったもので、原曲は”G”だが、キーを”D”にして歌っている。この「雨ニモマケズ」を暗記しようとするとなかなか手ごわいが、歌うとすぐに覚えられるから不思議である。そして、少しでもこのようになりたいと常々思いながら、今日も歌い続けている!

 

 「欲はなく決して怒らず<、いつも静かに笑っている。

    あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず。

   みんなにデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず。

   そういうものに、わたしはなりたい。」

 

「雨にも負けず 風にも負けず

 雪にも 夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち

 欲はなく決して怒らず いつも静かに笑っている

 一日に 玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ

 あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず

 野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋にいて

 東に病気の子どもあれば 行って 看病してやり

 西に疲れた母あれば 行って その稲の束を負い

 南に死にそうな人あれば 行って 怖がらなくてもいいと言い

 北に喧嘩や 訴訟があれば つまらないからやめろと言い

 日照りの時は 涙を流し 寒さの夏は おろおろ歩き

 みんなにデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず

 そういうものに わたしはなりたい」

「楽農ゼミナール」2018 〜鎌倉研の歌と語りァ

この曲はカントリーぽく、アメリカを思わせる 好みの一曲である。

うまいねぇ。

【Western Lullaby】

ついに2時間に及ぶ今夜のラストソングです!

参加者全員を巻き込み、日土町のご当地ソングとなるか!

【ちょっと待って日土町&八幡浜】

終いのアンコール曲。鎌倉さんは今日から禁煙、プカプカとさようなららしい。

それにしても、いったい今夜は何曲歌ったの?

【プカプカ】

 

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