あらし山の風

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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出る月を待つべし、散る花を追うなかれ

 世の中には、凄い人がいるものである。

 江戸時代の儒者、中根東里(なかねとうり)のことである。

 この人は、この時代の中でも俊秀であったというが、相当変わっている。

 なにしろ自分の名が残らないように、作品を燃やし続け、隠れ続け、自分の存在や生きていた痕跡を消し続けていたのだから凄い。元禄時代に中国語に通じて自在に操れたのだから、俊秀と言ってもレベルが違う。伊豆下田の貧乏寺で小坊主をしていた時に、お経の漢文には中国語本来の音が残っていることに気がついてしまった。そして、寺を飛び出して中国僧のいる黄檗山萬福寺に移ってとうとう中国語をマスターしてしまった。年若くして、あの大蔵経全巻を読破してしまったのだから相当なものだ。

 これだけ学識もあり、さらに中国語の音がわかっていたのだから向かうところ敵無しであり、あの荻生徂徠も、書の細井光沢も、朱子学の室鳩巣等からも自宅に招かれて共に勉強したという。

 中根東里の凄いところは、こんなに学問ができるのにどこにも仕官しなかったことである。

 食べるための学問を愛したわけではなかったらしい。

 お金があれば読書をした。

 お金が無くなったら竹の皮で草履を作ってそれを売り、それで暮らした。

 だから”竹皮草履先生”と呼ばれていたそうだ。

 当然、妻もいなかったが、子ども大好きだったようだ。飢えて困っていた幼い姪を引き取って一緒に暮らしていたという。

 まるで良寛さんじゃないか。(良寛さんは子どもと暮らしていたわけではなかったが・・)

 下野の国、佐野の植野という小さな村(栃木県佐野市)で、村人の要請に応じて寺子屋の先生をしていた。

 肉親を失った者には「出る月を待つべし 散る花を惜しむことなかれ」と言って励ました。

 今、この言葉が心底身に染みている!

 

(余録)なぜ知ったのかというと、ある日テレビを観ていて浦賀のリポートで地元の方が、ここには偉い人儒学者がいたよと口にした(浦賀は終焉の地である)。あれっ、中江藤樹先生のことかなと聞いていたら、それが中根東里のことだった。それから暫くして、歴史家の磯田道史さんの講演録を聞きビックリして、彼の「無私の日本人」を読んで驚いた。こんな人がいたんだ!

 下記は、中根東里の「壁書」である。

 如何に!

 

 中根東里の「壁書」

一.父母をいとをしみ、兄弟にむつまじきは身を修むる本なり。

  本かたければ末しげし。

一.老を敬ひ、幼をいつくしみ、有を貴び、無能をあはれむ。

一.忠臣は國あることを知りて、家あることを知らず。

  孝子は親あることを知りて、己れあることを知らず。

一.祖先の祭を愼み、子孫の海鮃にせず。

一.辭はゆるくして誠ならむことを願ひ、行は敏くして厚からんことを欲す。

一.善を見ては法とし、不善を見てはいましめとす。

一.怒に難を思へば悔にいたらず。欲に義を思へば恥をとらず。

一.儉より奢に移ることは易く、奢より儉に入ることはかたし。

一.樵父は山にとり、漁父は海に浮ぶ。人各々其業を樂むべし。

一.人の過をいはず。我功にほこらず。

一.病は口より入るもの多し。禍は口より出づるもの少からず。

一.施して報を願はず。受けて恩を忘れず。

一.他山の石は玉をみがくべし。憂患のことは心をみがくべし。

一.水を飲んで樂むものあり。錦を衣て憂ふるものあり。

一.出る月を待つべし。散る花を追ふ勿れ。

一.忠言は耳にさからひ、良藥は口に苦し。

 

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