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ジョン万次郎は、日本とアメリカについて語るとき何かにつけて「最初の人」である。
アメリカのフォークソングを最初に日本に伝えたのもジョン万次郎であった。
その歌が「おおスザンナ」である。
1850年、ゴールドラッシュのカリフォルニアへと向かい、帰国費用を稼ぐために金鉱掘りをする。このとき金鉱掘りたちの間で流行していたのが「おおスザンナ」だった。ここで大金を手に入れてホノルルへ向かい、苦労の末、1851年、琉球に上陸。鹿児島と長崎での長い取り調べの後、諫早から有明海、門司、下関、瀬戸内海を伊予へと渡って1852年夏、陸路で山を越え、ようやく土佐領に入った。この途上、同行者と歌ったのが「おおスザンナ」だった。ジョン万次郎から医師藤崎祥明が聞き書きした『土州人漂流記』には、「アメリカにも日本と同じ詩歌の類があり、道中にて謡う」と記されている。
ジョン万次郎はこの歌をどう理解していたのか。
捕鯨船やアメリカの生活の中で、ジョン万次郎はいくつもの歌を聴いて歌って覚えていたはずなのに、史料に残っているのは「おおスザンナ」だけである。
なぜこの歌にこだわったのか?
土佐に帰った後、ジョン万次郎は河田小龍に「おおスザンナ」を英語で教え、『半舫斉雑記』に英語とカタカナ読みで「おお、スザンナ」の冒頭部分が載っている。河田小龍は土佐藩での取り調べ記録を作った絵師で、その『漂巽紀畧』は坂本龍馬にも大きな影響を与えている。
その『半舫斉雑記』に記されているのは、以下の歌詞の冒頭である。
”I came from Alabama with a banjo on my knee”
英語で記録されているこの冒頭の「俺はアラバマから来たのさ…」は、自分は異邦人であり人に会うために旅をしている、という言葉に聞こえたのではないのか?。
さらに日本語に訳された、”スザンナが涙をためて坂を下ってくる夢の部分”は、辛苦をいとわず会いに行こうとしている母や故郷への想いと共鳴したのではないか?
ジョン万次郎は、「おおスザンナ」のナンセンスソング的な部分を解釈しないで、漂流民としての自分の姿を重ね望郷の歌として聞いたのではないだろうか?
14歳で漂流し、アメリカに明るい生活の見通しを築きながら、母に会いたい一念で死を覚悟で鎖国中の日本に戻ったジョン万次郎が、ついに故郷の土佐に帰るという道筋でこれを歌ったということに感動せざるをえない。
「おおスザンナ」は日本で最初にジョン万次郎が歌ったアメリカ最初のポップヒットである。
" ♪ おお!スザンナ、泣くんじゃない バンジョー持って出かけたところなんだよ♪ ”
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